【五稜郭の歴史】幕末の見果てぬ夢の象徴ー五稜郭
1. 五稜郭 - 箱館御役所の誕生
徳川幕府が200年以上にわたって行っていた「鎖国政策」は、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からのペリー艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」によって崩れ去った。巨大な蒸気軍艦の威容を背景にしたアメリカ側の開国要求に屈し、アメリカ大統領からの親書を受け取った幕府は、翌安政元年(1854)、食糧・薪水などの欠乏品の補給や遭難民の保護・引き渡しを保障する「日米和親条約」を締結し、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代まで、「函館」は「箱館」と表記されていた)を「開港場」とし、同年、アメリカに続いてイギリス、ロシアとも同様の和親条約を締結した。
開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲む形態が計画された。
当時、箱館には、幕府による蝦夷地巡検に同行し、その後、箱館奉行の支配下となった「蘭学者」武田斐三郎が在勤していたが、幕府は、移転計画にある役所の外郭施設である土塁の設計を武田に命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計した。これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に独自の工夫も加えたのである。
安政4年(1857)に着工した築造工事は、堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、「箱館御役所」(通称「箱館奉行所」)として蝦夷地の政治を担う場所となった。現在、一般的に使われている「五稜郭」という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である「稜堡」が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名「柳野」から「柳野城」という別称もあった。
2. 幕府脱走軍による五稜郭占拠 - 開戦
「鎖国政策」とともに維持されてきた徳川幕府の権力は、「開国」を巡る国内対立を発端として翳りをみせ始めた。幕府に対立する西南諸藩の動きを抑えることもままならず、薩摩長州両藩に討幕の密勅が出されたことにより、慶応3年(1867)、徳川慶喜は政権を朝廷に戻し(「大政奉還」)、徳川幕府は崩壊した。
箱館御役所(五稜郭)では、明治元年(1868)5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元年(1864)6月の業務開始から、わずか4年で幕を降ろすこととなった。
箱館での平和の裡に行われた政権移譲とは異なり、明治元年(1868)正月、京都に於いて、「錦の御旗」を掲げた薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(「鳥羽伏見の戦い」)し、「戊辰戦争」が勃発した。江戸に向けて進軍を続ける薩摩藩長州藩などの連合軍に対して旧幕府軍の劣勢は顕かで、江戸城の無血開城、上野の山に立て籠もった彰義隊の潰走(「上野戦争」)などにより、陸軍はほぼ壊滅した。
江戸城の無血開城を潔しとしない旧幕府陸軍の残存諸隊が、新政府に抵抗を続ける東北地方の諸藩を目指して相次ぎ江戸を脱走する中、旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚は、当時最強の軍艦「開陽」を始めとする無傷の幕府艦隊を江戸湾の品川沖に集結させ、新政府からの再三の軍艦引き渡し命令にも従わなかった。そして、徳川家の石高が十分の一に減らされたものの駿府での存続が認められたことを確認すると、艦隊を率いて江戸湾を脱走した。艦隊は、東北地方の諸藩が新政府に対抗して結成した「奥羽越列藩同盟」の支援のため仙台の松島湾に来航。しかし時既に列藩同盟は相次ぐ同盟離脱・落城降伏により瓦解寸前。ここで、北関東から東北地方を転戦してきた土方歳三に率いられた新選組などの旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ東北諸藩の部隊を艦隊に加え、蝦夷地へ向かった。
明治元年10月20日、3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍は、開港場であり諸外国の領事館や商社も存在する箱館への上陸を避け、箱館から十里ほど北に位置する内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木(現、森町)沖へ投錨、吹雪の中を上陸し、明治新政府の箱館府(箱館裁判所から改称)がある五稜郭を目指して南下を始めた。
榎本武揚は蝦夷地渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣達の生活安定のための蝦夷地開拓の趣意嘆願をしており、同様の嘆願書を箱館府へ提出しようとしたが、10月22日、箱館府との間に戦端が開かれてしまった。戦闘経験の豊富な旧幕府軍に 対して迎撃する箱館府兵の抵抗は効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避し、26日、旧幕府軍は無人となった五稜郭を占拠した。ここに五稜郭は旧幕府軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台となる。
箱館を抑えた旧幕府軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたが、松前藩は抵抗の動きを見せたため、土方歳三を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して11月5日、松前藩の福山城を制圧、松前藩主一行は津軽へと脱出した。この間、陸軍支援のために 松前へ向かった旗艦「開陽」が日本海の冬の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦「神速」も沈没するといった失態もあったものの、旧幕府軍は蝦夷地から新政府の勢力を一時的にせよ駆逐した。
3. 明治新政府軍の反撃 - 終戦
旧幕府軍は箱館在留の諸外国の領事に対して、従来通りの権益を認めるなどの懐柔政策で対外関係を維持するとともに、英仏軍艦の艦長に託して、蝦夷地開拓の請願書を新政府へ届けたが遂に受け入れられることはなかった。一方、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、12月15日には蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構が整えられた。
しかし、当時最強の軍艦であった「開陽」の沈没による戦力低下により、旧幕府軍は、明治新政府と対等な勢力である「交戦団体」とは認められなくなり、諸外国は「局外中立」を撤廃した。旧幕府軍は、新政府に対する単なる叛徒として、征討の対象となったのである。新政府軍は、局外中立の撤廃に伴いアメリカから引き渡された軍艦「甲鉄」を旗艦として征討軍を編成、明治2年(1869)3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航した。
蝦夷地への北上途中、宮古湾での旧幕府軍による「甲鉄」奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は、4月9日、日本海側の乙部に上陸を開始、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かった。圧倒的な戦力で迫る新政府軍により脱走軍守備隊が次々撃破されていく中、江差から箱館への最短経路である江差山道の山中に布陣した土方歳三の指揮する部隊は、増強される政府軍を激しい銃撃で撃退し続けたが、残る二方面の脱走軍が敗走したため、退路を断たれることを恐れた五稜郭本部からの命令で撤退した。
5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった旧幕府軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始した。箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫った。
陸軍奉行並として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したが、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命した。また、海上でも両軍の軍艦による砲撃戦が繰り広げられ、波の静かな天然の良港である箱館港が紅蓮の炎に包まれた。
旧幕府軍の海軍が全滅して後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、「甲鉄」の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、旧幕府軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として降伏を勧告した。
箱館の住民にも大きな被害を出す中、新政府軍に味方をする住民組織による旧幕府軍に対する破壊工作などもあり、降伏勧告にも最後まで抵抗していた「千代ヶ岱台場」の玉砕により箱館戦争の全ての戦闘は終息し、榎本武揚ら旧幕府軍の首脳は、5月17日、新政府軍の斥候所に出頭し降伏の条件を話し合った。翌18日の早朝、五稜郭内に整列した旧幕府軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていった。将兵は武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結した。徳川家臣団による蝦夷地開拓の夢は儚く潰え去り、多くの人々の命と引換えに、近代日本の基礎が造られていった。
榎本ら旧幕府軍の幹部は東京へ護送され投獄されたが、明治5年(1872)には赦されて、多くは北海道開拓使への出仕を命じられた。中でも榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことになる。
4. 公園として、文化財として - その後の五稜郭
箱館戦争の終結後、五稜郭は再び明治政府の兵部省の所管となったが、二度と行政府として歴史に現れることはなかった。明治4年(1871)には、郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されていた。
その一方で人々は五稜郭を積極的に利用していた。五稜郭の水堀では冬期間の結氷を伐り出す採氷事業が軌道に乗り、明治4年の厳冬期に採取した氷670トンを本州各地へ送り出し、当時、高価なアメリカからの輸入氷を市場から駆逐する、函館の一大産業ともなった時代もあった。
また、函館市民の請願を受けて、五稜郭は大正3年(1914)から公園として一般開放され、5,000株の桜の苗木が植樹され、北海道でも有数の桜の名所として現在に至っており、現在では、市民による、歴史を題材としたイベントの会場として四季を通じて利用されている。
公園として親しまれていると同時に、五稜郭は、幕末から明治維新にかけての我が国の歴史を理解する上での重要な遺構として、大正11年(1922)に国指定史跡とされ、さらに昭和27年(1952)には、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」として、北海道では唯一の特別史跡に指定された。そして、国宝に準ずる文化財として保存整備事業が進められ、石垣の修理や橋の架け替え、更には五稜郭に関る絵図面や文献資料の調査を経て、昭和60年(1985)から郭内の遺構調査が進められ、この結果に基づいて平成22年(2010)、庁舎全体の建築面積の3分の1とはいいながら、当時と同じ場所、伝統工法、同じ材木を使用して御役所(奉行所)庁舎の高い精度での復元をみたのである。
武田斐三郎
(たけだあやさぶろう)
1827~1880
緒方洪庵塾に入門し、洋楽語術を学ぶ。ペリー艦隊が浦賀に来航した際には佐久間象山の門下にいた。洋式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに明るく、箱館開港後は箱館諸術調所の教授として活躍。その後、幕命により弁天台場、五稜郭の設計監督にあたった。
榎本武揚
(えのもとたけあき)
1836~1908
オランダ留学を経て幕府の海軍副総裁になる。
幕府崩壊後、新政府への軍艦引き渡しを拒否して脱走。箱館に旧幕臣による仮政権を築くが箱館戦争で敗れて降伏。後に明治政府要職に就く。
土方歳三
(ひじかたとしぞう)
1835~1869
彼は裕福な農民の出身です。剣術を学び、徳川幕府の紀冊組織の一つである「新選組」の副隊長となり、京都に於いて、反徳川勢力を取締りました。五稜郭の徳川幕府軍では、陸軍の副司令官として戦いを指揮しました。
五稜郭の歴史・略年表
1854年 (安政1年) |
3月日米和親条約締結、箱館の開港決定 4月アメリカ艦隊が箱館に来航 6月箱館奉行を設置 |
---|---|
1855年 (安政2年) |
3月函館港を和親開港 |
1856年 (安政3年) |
8月箱館諸術調所を設置 |
1857年 (安政4年) |
6月五稜郭の建設工事着工 |
1864年 (元治1年) |
6月五稜郭へ奉行所を移転 |
1867年 (慶応3年) |
10月大政奉還 |
1868年 (慶応4年) |
4月新政府が五稜郭に箱館府を設置 8月19日旧幕府艦隊、品川沖を脱走 9月明治に改元 |
1868年 (明治1年) |
10月20日旧幕府軍、鷲ノ木に到着 10月26日旧幕府軍、五稜郭を占領 11月5日旧幕府軍、松前を占領 12月15日旧幕府軍、蝦夷地平定 |
1869年 (明治2年) |
3月9日新政府軍艦隊、品川沖を出航 4月9日新政府軍、乙部へ上陸開始 4月17日新政府軍、松前を奪回 5月11日新政府軍、箱館を総攻撃 5月18日旧幕府軍降伏。五稜郭開城 |
1870年 (明治3年) |
2月五稜郭の堀で天然氷を採氷 |
1871年 (明治4年) |
4月五稜郭内の建物を解体 |
1914年 (大正3年) |
6月五稜郭を公園として開放 |
1952年 (昭和27年) |
3月五稜郭を特別史跡に指定 |
五稜郭主要データ
史跡指定範囲の面積 |
約251,000㎡(東京ドームの約5倍) |
---|---|
堀の周囲 |
約1.8km |
史跡指定地の周囲 |
約3km |
堀の幅 |
最大幅、約30m |
堀の深さ |
約4~5m |
土塁の高さ |
5~7m |
土塁の厚さ |
約27~30m(底部) |
直径 |
約500m(東西約500m × 南北約500m) |
別称 |
「亀田御役所土塁」、「柳野城」 |
参考資料(当社研修用PDF)
写真:函館市中央図書館蔵・市立函館博物館蔵